こんな具合に昭和58年から始めた「システム開発室」で、社内開発に加えて、社外それも通常体験できないようなシステムを開発して充実した毎日を過ごしていました。この間に、約1億円の売上ですから、その内の2割を利益分配してもらい、その半分を責任者として配分してもらいました。すなわち、5年間で総額1000万円もの手当が入りました。年平均200万円ですから大変な額でした。
こんな勢いがあったので、個人的にも充実していました。まず、昭和58年秋にマンションを購入し、昭和59年に新築で入居いたしました。昭和60年には、係長に昇格しました。この年は、ゴルフ場の会員権を購入して、年間20ラウンドして、オフィシャルハンディキャップが一挙に19まで上がりました。西川君にショートホールは2、他は3というハンディ(合計50)をあげて、彼が、125で回っても、引き分けた(81だった)こともありました。また、80は1回目で切り79というスコア、ゴルフ場のBクラスのコンペで、81で回って3位などの成績をあげました。
もちろん、社内的なやっかみはきついものがありました。しかし、私が収入を再分配することで有力な抵抗勢力を仲間化しました。身体が弱いのと自動車で通勤していたので、余り、飲んで帰るということはなかったのですが、この仲間たちと毎晩、近くの飲み屋で飲むという日々もありました。痛快だったのは、昭和60年に阪神タイガースが優勝した時です。この時、近所の飲み屋が「こも樽」を用意して、優勝したら「鏡割り」して振る舞い酒をすると企画がありました。覚えておられる方も多いと思いますが、途中まで負けていて、最後に、引き分けに持ち込んで優勝したのですが、もう10時をとっくに回っていました。肝心の阪神ファンが帰ってしまい、巨人ファンの我々が残っていたのです。親父さんは「なんで巨人ファンに振る舞わねばならないんだ!」と笑いながら「鏡開き」したのが、こっけいでした。・・我々も阪神ファンなのですが、飲み屋では、巨人側で応戦して楽しんでいたのです。
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