このように、時代はシステム化の波がうねりをあげるようになっていました。我々は、独自戦略で社外の仕事を受ける「システム開発室」をつくって活躍し始めていました。社外の活動しながらも、このように、社内のシステムを充実させるという「2足のわらじを履く」状態でした。昭和58年4月にスタートしたのですが、この年、和歌山大学の学生で西川君が入社しました。彼は、和歌山大学の卒業であり、大学でシステムの勉強をしていて、会社に入って、コンピュータの仕事をしたいと言って入社した経緯があります。・・ちょうど、私の場合と同じですね・・
彼が学生の時に、よく会社に来てくれたのですが、その時は、私が相手したのですが、口癖は「データベース」でした。どうやら、彼の言っている「データベース」は論理ファイルを検索する、大型機のMVSシステムやIBMシステム38機が使用するもののようでした。なる程、若い学生は、最先端のことをよく知っているなと思いながら、自社の話をしてあげました。
IBMのシステム34機は、代替索引というものを検索システムで使用するものでした。索引は本来ユニークでなければならないのですが、代替索引は、データ部のある項目を索引化するものなので、重複データが可のものです。この代替索引をブローズして小計するシステムが一般的でした。これは、DFUというユーティリティでも検索できたので、特別なシステムを作成していた訳ではありませんでした。また、索引が多くなるとシステムのファイル管理の負荷が大きくなるで、全面的には取り入れていませんでしたが、ミスター・データベースの西川君には、入社するまで理解してもらえなかったようでした。
この彼が、RPGUのプログラムを理解するには、半月もかかりませんでした。さすがに、学生時代にCOBOLなどを習っていた実力が発揮されました。従って、社外の仕事に即戦力として活躍してくれるようになりました。
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