<月刊AMI>2018年9月号 Vol.205 ■△▽●○□


1..「照顧脚下」

 右掲は、禅宗のお寺の玄関先の写真です。
「照顧脚下」という立札とキチンと揃えられた草履が映っています。
「照」は文字通り照らすで「顧」は顧みるという事で足元に目をやって顧みなさいという意味であり、具体的には「キチンと揃えていますか」という問いかけであります。

 しかしながら、この言葉の本来の意味は少し違っています。
中国の高僧で五祖法演襌師と弟子たちのエピソードが由来で、ある夜の帰り道、手にしていた灯火が消えてしまい、弟子たちが暗くなって辺りが見えなくなって右往左往するのを見て、法演襌師が「さあ自己の見解を述べよ」と命じ、弟子の中の園悟克勤が「看脚下(足元を見よ)」と述べたと言う事から来ているとの事です。
急に暗くなると一寸先も見えなくなるが、足元をよく見ているとほんの薄明りで次第に見えてくるので一歩ずつ歩を進めば大丈夫という事を表しているのです。

 人生には急に災いが降って来て、どう対応したらよいか分からなくなり「不安」に苛まれて、その不安が増大するばかりで手の打ちようがないと事態になってしまうのです。
こんな難儀に出遭った際、余り遠く(大きな)の事を考えていると現実と違い過ぎるので、どうすれば良いか手の打ちようが見えなくなりますが、こういう時こそ冷静になって身近な事から着手すると一歩ずつ解決に向かうのです。

 禅の教えの多くは「現実を如何に力強く生きるか」という視点から始まっており、「照顧脚下」も同じで現実(今できる事)に着目して、解決の糸口を見つけ出す事を教えているのです。
例えば、仕事の山を目の前にした時、全体を見れば余りの量に圧倒されてしまい「忙しい」と嘆くのですが、冷静になって、仕事を分類すると即着手できる事が数多くあるのです。この即着手できる事、すなわち、着手すれば解決するような事から着実に一つずつ片付けるのです。
難しい難問のような仕事は、自分一人では出来ないので、仕事を分解するとそれぞれの特性に合った経験をもった人たちの存在が浮かんで来て、解決のための行動が見えて来るのです。

 要は「一塊(ひとかたまり)」で見ないのです。
「照顧脚下」と同じような意味で改善手法に「なぜなぜ5回」がありますが、なぜと問うことを5回も繰り返すと本質的な原因に行きつくという手法なのです。
本質的な原因、すなわち、「真因」が分かれば対策が打てるのです。
その多くは意外に簡単な事だったりするのです。
このように、森羅万象に共通するのですが、困った時には、今、着手できる事は何かを探る事から始めて、着手することが大切なのです。

 具体的には、今年も各地で異常気象や地震で被害に遭われた方が多いですが、まず、「今日を生きる」という事が大切なのです。
避難所には多くの方がおられますが、その環境に適応して「生きる」という事が大切なのです。周囲を気にしたり、明日の事を考えると不安にかられて寝不足になって体調を崩すと言うのが人情なのですが、先の事にとらわれずに「今日」を大切にして逞しく生きる事が重要なのです。
人生にはいろんな災難が待ち構えていますが、その際に、この「今日」という事に集中するが大切という事を肝に銘じておきたいと思います。


2.最後に
 前項でも不意な災難に出遭った時に「今日を生きる」という現実主義が大切だと書きましたが、シャープが「着眼大局、着手小局」をスローガンにしていたことを思い出します。
経営陣は「大局」は把握していたが、現実の「着手小局」が出来ずに大赤字になり、結果、台湾企業に経営権を奪われたのです。
しかも、3年も経たずに再上場するかという回復なので旧経営陣の無策にはあきれます。
「着手大局」を忘れないようにしたいです。


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